自動車技術会誌の8月「年鑑」号は、自動車に関する各分野の技術やそれを取り巻く社会の動向などについて記載された記事が掲載される。その中の「自動車と環境」の項については、2019年より私が執筆している(1)。その中で過去1年に登場した環境性能的にトピックとなる新車を取り上げている。当然ながら近年ではバッテリ電気自動車(BEV)を取り上げることが増えている。それで感じることはパワートレイン関連について、BEVだと書くこと、正確に言うなら書きたくなることが減った、ということだ。ハイブリッド車では、例えば「高圧縮比でミラーサイクル採用の高効率エンジンにハイブリッド機構を組み合わせて燃費○○km/Lを達成した」といったレベルのことをBEVで書こうとしても、バッテリ容量と一充電走行距離くらいしか書くことがない。その理由の一つは私自身が内燃機関ほどBEVの技術について詳しくないことだ。ただ、それだけではないだろう。動力性能にせよ環境性能にせよ高性能をアピールしたい内燃機関搭載車の後ろには、ほぼ確実にそれを示すバッチがついている。「ターボ」とか「ハイブリッド」とか「直噴(DI)」とか、それ以前の「V6 3.0」とか「DOHC」も同じ範疇といっていい。それをBEVで考えるとして、希土類フリーモータだとかSiCインバータ搭載といったバッチを付けるか、というとまず考えにくい。つまりそれらは、ユーザーの所有欲を高める、あるいはそんじょそこらのとは違うんだぜ、とマウントをとった気分になる要素でない、ということだ。内燃機関には多岐にわたる要素がもたらす様々な能書きがあって、それを紡ぎ出す物語を作ることができた。だがBEVではそれが難しいように思う……では、どうなるのか。
まずいえるのは、これまで以上にユーザー/ドライバーが車の個々の技術について関心を持ちづらくなる。「物語」が失われて行き着く先は機能と値段だけで評価が決まる、いわゆるコモディティ化の世界だろう。それはレンタカーやサブスクリプションサービスと相性が良く、それらは今後も増えていくだろう。一方で日本では、古来より家畜や道具にまで半人格を与えて仲間として処遇する文化・精神構造(船に「○○丸」と名付けるのはそれに起因するという)がある。車は単なる消費財であるよりも「相棒」的な要素もある。他人のものとは異なる独自性を求める需要はなくならないだろう。技術的差別化が難しくなって、どう個性を発揮するか……私見だが、ポイントは「のり」や「うけ」であり、「痛車」あたりはその解の一つに思える。もっとも、それが世界の主流になることはありえないが。
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